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初代・池田才吉により、薬局としての源流となる池田薬局開業

1880

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医者を志し、
大阪の明治病院で書生として勉学に励むも、
生来体が弱く志半ばで断念。
故郷・八幡浜へと戻り、
日本で28番目の"帝国薬剤師”として売薬業を始める。

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二代目・六郎により、大きく事業を拡大

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商才に長けていた二代目・六郎は、
薬屋のかたわらでアサヒビール、サッポロビールの特約店として、
ビールや酒の販売を行った。

商いを軌道に乗せる一方、
地域の人々の声に熱心に耳を傾け、薬学研究を怠らなかった。
その甲斐あって、大熱や鎮痛によく効く名薬 "六神散 " を生み出し、
​徹夜で調薬しても間に合わないほどの大ヒットとなった。

明治42年、南予一円を襲ったペスト騒動の際は、
危険を承知で自ら消毒液を手に各地を駆けまわり、その拡大を防がんと尽力。
「無いと思な、運と災難」という自らに課した信条の通りに、
​如何なる時も狼狽えることなく、気丈に、人々のために為すべきことを為した。

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三代目・一郎が薬局経営を盤石なものとする

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三代目の一郎は、朗らかで温厚な人物だった。
家業に励むかたわら、赤ん坊を背負いあやしながら、フランス語で綴られた小説を好んで読んだ。

商魂たくましい父・六郎とはうって変わって、
新規顧客獲得、販路拡大よりも既存客の信頼を確固たるものにせんと、
手厚い対応を心掛けた。

芸術への造詣も深く、とくに写真の腕前はプロ顔負けだった。
薬局の片隅に現像部屋を自作し、時間さえあればシャッターを切った。
​大正から昭和にかけて、
写真資料が豊富に残っているのは一郎のおかげである。


 

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四代目・稔の人柄をもって、より身近な「かかりつけ薬局」へ

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ある日、乳飲み子を抱えた一人の女性が薬局を訪れた。
「お代は後日、お支払いします」
そう言って住所を書き記し、女性はミルクとクスリを持ち去っていった。

後日、稔が記された住所に集金に伺うと、今にも崩れ落ちそうなあばら屋の間を痩せ細った家畜が歩いていた。
居た堪れなくなった稔は、戸を叩くことなく踵を返し、雨のなか自転車を走らせた。
その後、女性が代金を支払いにくることはなかった。

十数年後、一人の青年が池田薬局を訪れた。


「母は生前、『池田薬局さんのおかげで今のあなたがいる。感謝してもしきれない』と、よく話していました。
 母に代わって、お礼に参りました。お代が遅くなり、申し訳ございません」


な顔立ちに、パリッとしたスーツに身を包んだ青年は、いつかの女性の腕に抱かれていた乳飲み子だった。

自身の薬局経営も日に日に苦しくなる激動の時代。
それでも貫き通した稔の "人情 " は、確かに人と人、時代と時代を繋ぎ、未来を紡いでいった。

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五代目当主・泰広が守り抜く歴史と、繋ぐ未来

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